一般病棟に移って、術後の診察にて順調に回復していると言われ、酸素マスク、排液ドレン、点滴と日を追うごとに一つづつ取れていきました。
そして、リハビリが始まりました。理学療法士の方に「傷口をかばって歩き方がちょっと傾いてる」「こういうストレッチとこの部分を伸ばす運動をして下さい」と教えていただきましたが、
「こんな運動をして、なんになるんだろう?」というマイナスな思いが起こりました。
そんな時、教会メンバーたちから、
「手術は無事に終わった?」
「祈っているからね」
「退屈してない?」
「早く癒されますように」
などの励ましのLINEをもらい、
自分の事を気にして心配してくれる神の家族がこんなに居るんだと嬉しくなりました。
そして、入院中に頂いた本の中に信じるとは?との箇所がありました。そこには、私たちは信じた後も疑うし、迷うし、解らない事もあります。と書かれていました。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1
この御言葉が心に浮かびました。
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」
このままでは「自分はクリスチャンだ」と言っているのに、やってることが全然違う!思い描いていたクリスチャン像とかけ離れたものにドンドンなっていく…と心の中に葛藤が起こりました。
その時「こんなダメな私だから、イエス様が来てくれて身代わりとなって十字架に掛かって下さった。私の救い主として、今までの罪もこれからの罪も、罪を赦すために贖いのいけにえとしておられる」との言葉が頭に浮かびました。
弱い私のためにイエス様がおられるのです。クリスチャンになっても、迷い不安になる事はもちろんあります。でも、その度に神様が友人やみことばをとおして語ってくださいます。
その後、順調に身体も回復し、サックスでの賛美奉仕者として、以前と変わらず礼拝を捧げられる事を喜び感謝します!
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』ヨハネの手紙第一4.10
〈U.T〉