R6.6.17 義父 召天 享年93歳

イエス・キリストとの出会いが、ひとりの人の人生を大きく変えた。

34年前、私の母と入籍した。27年前、2人に「本当の神さまはこの天と地を創られ、私たち人間を創られたお方ですよ。自宅にある神棚には、本当の神さまは住んでおられない。すぐに教会に行ってください。」とだけ伝えた。義父はすぐに実行に移した。

それまで2人は、日曜日ともなれば競艇をしていた。それが、毎週日曜日は教会通いに変わった。26年前、2人一緒に豊川で洗礼を受けた。イエス・キリストという神さまが、どういうお方か熱心に求め始めた義父。

『求めなさい。そうすれば与えられます。』マタイの福音書7の7

イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえり、今父の右に座し、とりなしておられる神であることを心から信じ「この神様1本にする」と心を新たにして歩み出した。

認知症が進んでいく妻に対して、初めはイライラし、怒ってばかりだった。この怒りが罪だということも示され、命を与える主なる神様から離れている自分の醜い姿に涙し、イエス・キリストの十字架が自分のためであったことを明かしてくれた。幸いにも、祈ることを教えられていたので、夜寝る前に「イエスさま、今日も女房を怒ってしまいました。明日はこうしたいと思っているので、助けて導いてください。」と祈りの連続だったそうです。

不思議と祈っていると感謝の心が与えられ、イライラが消え失せた。復活され生きている神さまが自分の心に働きかけてくれているのがよくわかったそうです。

R6.3.24 義父自身が自宅でふらつき転倒するまで、認知症の母の老々介護に徹してくれた。こんな事は聖霊様の働き以外にありえないと、私は日々思っていた。信仰者として歩む中、天国への希望は全くブレずに持っていた義父。人は死んで終わりではない。その先に神と共に『永遠』を過ごすことができるという死生観。「イエス・キリストに出会わなければ、男なので地位や名誉を求めていただろうね。でも、そのようなものは、天国へ入るのは必要ない」と語った。

「イエス様の十字架の愛を信じるだけで救われる。みんな寂しいからどこかに愛を求めているのではないかい?イエスさまの十字架の愛だけが真実の愛。ここから離れてはいけないよ」と私に話された。

『世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。』ヨハネの福音書16の33

「キリストの愛からわしらを引き離すものは何もない。今は死ぬことも怖くない。私は大手を振って、天国に行くよ。先に行って待ってるから…。」死後の話も義父とはよく語り合った。(クリスチャンの特権ですね。)

義父の人生はイエス・キリストとの出会いによって最高の人生だったと確信します。

一つ一つ導いてくださった神様に栄光をお返しいたします。

『私はよみがえりです。いのちです。私を信じるものは死んでも生きるのです。』
          ヨハネの福音書11の25

1人でも多くの方がイエス・キリストに出会って、救われますように祈り続けます。

(R.E)