2016年1月4日。
私はこの日、35本の真っ赤な薔薇の花束を段取りした。
最愛の妹の葬儀のため、棺に入れるためだ。
43歳だった彼女の歳の数だけ段取りしたかったけれど、市場は正月真っ只中、新鮮な薔薇をどれだけかき集めても35本しか集まらなかった。
真新しい下着にマックスマーラのコート、シャネルの鞄にピンキーandダイアンのピンヒール、彼女のお気に入りのスーツに身を包んで、その日を迎えた。
最愛の妹が召されたのは2015年12月30日、年の暮れだった。
嘆き悲しみの深さは測り知れなかった。気がおかしくなっていたのかも知れない。
そんな月日をどんな風に歩んだのか?ハッキリは覚えていない。
ただ、確実に言えることは、時間が過ぎた、という事だ。
昨年2022年の年の瀬で、妹を送って7年の年月が満ちた。
聖書では7は神様の完全数だ、と言われている。
自分の頑張りではない、何かが大きく変わったのを実感している。嘆きの日が終わりを告げたのだ。私は大きな癒しと解放を味わっている。
聖書にラザロという全身おできだらけで貧乏で金持ちの玄関で物乞いをしていた人物が出てくる。彼は死んだ。そして、天に召されてアブラハムの懐で安らいでいるのを、金持ちが見るのだ。ラザロの人生は幸せとはかけ離れていたのかも知れない。でも、報いがあったのだ。私の妹もこの地上では病気で闘病の果て亡くなり、幸せだったのか?と悲しくなるような人生だった。
聖書にこんな言葉がある。
『眠っている人たちについては、兄弟たち、あなた方に知らずにいてほしくはありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。すなわち号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きと共に、主ご自身が天から下って来られます。そして、まず、キリストにある死者がよみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですからこれらのことばをもって、互いに励まし合いなさい。第一テサロニケ4章13節から18節。』
聖書は、愛する者の死を悲しんじゃいけないと言っているのではない、悲しむ必要がない事を知って欲しい、と言っているのだ。キリストの来臨の時、まずキリストにある死者がよみがえり、一緒に雲に包まれて引き上げられて空中で主と会い、いつまでも主と共にいるようになるんだよ、と希望を語っているのだ。そしてその事をもって励ましあいなさい、と言っているのだ。
すぐにはわからなかった私。
でも、完全数の7年を迎えてこの聖書の御言葉の意味を深く知るようになった。
キリストにある死者、と書いてある。私の妹は、敬虔なクリスチャンだった。よく祈るキリストにある人だった。いつか会えるのだ。こうして私の嘆きは希望に変わった。
伝道者の書3章11節。
『神のなさることは、すべて、時にかなって美しい。』
私は、この言葉の証人だ。
このことを多くの人に伝えていきたいと思う人に変えられた。感謝だ。
〈まさみん〉