教会には信仰の先輩方がいる。その話す言葉は、なんでそんな事が言えるの?出来るの?だらけだ。
先日、信仰の先輩である婦人に、毎日の聖書の手引きに困ってる、何か良い書籍はないか?相談したところ、その婦人は日曜日にご自身が使っていた聖書の手引き書を持ってきて下さり、私に手渡して下さった。もう使わないから、、と、くださった。
その姿勢に、私のことを気配りして下さる愛に、胸打たれ、どうしてそんなことが出来るのだろう?ご自身も決して順風満帆な状況ではないのに、、口から出る言葉は、感謝、ばかり。
凄いなぁ、と、帰ってから早速大事に手引き書を開き感動に涙が出た。
また、もうひとりの男性の先輩は、先日、急な事故でご兄弟を亡くすという壮絶な経験をなさった。しかし口から出る言葉は、ハレルヤ、葬儀で証が出来て感謝でした、、と。驚愕だった。なんでそんな事が言えるの~?と。でも、固く信仰に立ったその力強い、先輩の証は、私の心に突き刺さって止まなかった。
あ~、主を信じ歩み、主を信頼して生きる、生きた先人の生き様、証は力強く、こんな私を励ますなぁ、、と、強烈に思った。
教会には信仰の先輩方がいる。それはそれは心強い先輩方だ。
教会にくると良い事がある!神の家族に加わるといい事がある!
と胸を張って言えるのは、そんな信仰の先輩方が居て下さるおかげだ。
私も、そんな信仰者になりたい。
『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように、私たちを取り巻いているのですから、私たちもいっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれた競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』ヘブル12.1〜2
〈M.H〉