私は身体にも精神にも障害があり無茶できない。
今までも、それで随分泣いてきた。
こうありたいのに、そうあれなくて、理想と現実のギャップに苦しんできた。

私の大好きな祈りの中に、ある兵士の祈り、というのがある、こう言った言葉で始まる祈りだ。

大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと、神に求めたのに、謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった。

この祈りを初めて読んだ時、号泣したくらい、心揺さぶられた。

聖書の神様の価値観は、強いものが勝ち組という論点ではない。
イエスキリストは、スーパースターとしてではなく、赤ちゃんとして、人と同じ姿で来られ、最終的には、惨たらしい、十字架に貼り付けになって殺される、という、究極な弱さ、負けを通られた。

三日目に復活し、全てに打ち勝って、人類の救いを成就なさったお方だ。

パウロという人物が、肉体の弱さを、取り去って欲しいと願ったとき、神様の答えは、わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのはわたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである、、という言葉だった。

聖書の神様の価値観は、弱さが強さだ、という事である。
だから、パウロは、弱さを誇ると言った。
私もそうでありたい。
出来ない事を嘆くより、出来る事を数えて感謝したい。

聖書の神様は、弱さに同情できない方ではない。弱さの中に完全に働く、と言って下さる方だ。
だから、私も、障害があるけど、弱い事を誇りに思いたいと思う。

いろいろあるけれど、それら全てを感謝出来る事が、本当の勝利なんだと聖書は言ってる。
私は本当の勝利者になりたい。

教会は、そんな聖書の価値観で神様と出会う場所だ。
神様と共に生きるという事は、自分の十字架を負いながら、イエスキリストについていくという道だ。
これを楽しまないのは大いなる損失だ、と思う。

『ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』  第二コリント12章10節

      〈まさみん〉