私は小学生の頃、「ニタニタ」と呼ばれていた。いつもニタニタ笑いをしているからそう呼ばれた。
いつも笑顔と言うから、どれほど豊かな生活だったかと思われそうだけど、、、そんなことない。
週末の夜には両親が夜勤のため、子供だけで留守番させられ、お小遣いが欲しければアルバイトで稼ぐ事を勧められる家庭。
両親も生活が楽だったわけではない。父はいつも辛い境遇に対して愚痴をこぼしながら笑っていた。
大人になって考えると父は楽しくて笑っていたのではなく、苦笑いをしてたんだと。辛くても笑顔で乗り切ろうとしてたのかな?
「笑う門には福来る」って事だったのだろうか?
父同様に小学生になった私も苦笑いを当然のようにしていた。
怒り、不平不満、暴言、暴力、いじわるで対抗するよりも、「笑って、どうってことないよ(^^)/」ですませば、大変な状況もなんとかすり抜けられる。
笑っていれば、毎朝の朝刊配達も、学校の宿題も、部活の練習も何とかやりこなせる。
ちゃんとやりこなせば、世間は、大人は、先生は認め、評価してくれる。
社会人になっても色々な大変な事はあった。寂しい思いもした。悔しい事もあった。
でも、苦笑いをしなくても良い場所を見つけた。
『求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。
たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。』 マタイ7:7-8
そう玄関の看板に書いてあるから、言葉通り求めた。そして心を決めるため、当時通っていた教会で、クリスチャンの洗礼を受けた。
洗礼式で、最もキリストに似た聖人と言われる「アシジの聖フランシスコ」という名を授けられた。
私が欲しいのはそんな名前でなくて、「愛」が欲しいのですと心では思っていた。
洗礼受けて、キリストに似たものになるように努めた。本心で楽しくなくても、嬉しくなくてもキリストに似ようと努めた。
弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。使徒11:26
信仰者の道を貫いても世で成功するわけではない、むしろ人が味合わないような境遇を体験した。
でも、どんなに落ち込んでいても、讃美する事で心から笑みが出てきた。
「いつも喜んでいなさい」Ⅰテサロニケ5:16 この言葉だけが心のよりどころだった。
私のクリスチャン名、フランシスコ。
それはどんな状況でも、イエス様を信じる「キリストに似た者」となるようにとつけられた名前だったのかも知れない。
私は、24歳の頃から、SNSで情報交換するときには、「フランシス」と名乗り、いつしか仲間からは愛称として「フラちゃん」呼ばれるようになった。
今なお、苦笑いをしてしまうシーンが多いですが、出来るだけ本当の笑顔になれるように神さまに祈っています。 〈フラちゃん〉
※当教会では、教会員に洗礼名を授けてはいません。