12月の満月の別名はコールドムーンと言うのだそうだ。

ついこの間の満月の時にふと思い出したことがある。

今は亡き義理の母が入院していた頃、私が生まれて初めて作ったお饅頭を1個だけもってお見舞いに行ったことがある。もう食欲もなかった義母は食べられる由もなく、一番出来がよかった私のお饅頭は、私と共に帰宅することになるが、その時に車中から見たコールドムーンをいまだに思い出すことがある。いつの間にか満月を見ると思い出す事柄になってしまったようだ。

義母がすでに末期のガンだと知らされたのは、そのコールドムーンからせいぜい2ヵ月くらい前の話であった。私たちがその事実を知らされたときにはすでに症状緩和のための放射線治療も終わった頃の事で、余命3か月を宣告されていた。余命3か月の義母にこの私が何を言えるだろう?正直、両手で余るほどの回数しか会ったことのない義母にこの私に何ができるのだろう?と思ったものだ。

主人と義母の仲は良かった方だと思う。しかし主人が義母に会いに出かけるのは稀で、年に1回も会っただろうか?お正月すら行き来しなくてもよい家庭であった。ただ単に昔からそういう風潮の家庭だったという事だろう。そういうわけで必然的に私も義母に会った回数は少なかった。

友人たちに私が義母に対してこれからどうするべきかという悩みを話すと、「自分があとで後悔しないために最低週1回でもお見舞いに行った方がいいよ」というアドバイスをもらい、その通りに実践したのだが、週1回どころか週3、週4回のペースでお見舞いに通うことになった。もちろん自発的にそうしたのであるが、地味に遠かったその病院に通うのは正直大変だった。コロナ禍でもあり面会が制限される中、緩和ケア病棟だけは一日30分の面会時間が許可されていた頃だったが、義母の立場に自分を置いた場合、毎日でも誰かに会いたい、話がしたいだろうと思うと、やはり通ってあげなければと頑張った。主人が仕事で週末しか来られない穴を埋められるのも私だと思っていたし。しかし、それ以上に私には話さなければいけないこともあった。死にゆく人に私がクリスチャンとしてできる最後の事。

神様のことを伝えなければ…私自身が後悔しないためにも何とかして神様のことを伝えなければ…そう思った。     〈こまち〉

         パート2に続く